上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

死神の精度
死神の精度
posted with amazlet on 07.12.27
伊坂 幸太郎
文藝春秋 (2005/06/28)
売り上げランキング: 724


ああもう。
これも来夏に映画化だそうだけど。

そして、この作品に、なんのケチをつけるつもりもないのだけれど。
(っつか、大好き。すごい好き。めちゃくちゃ好き。)

伊坂作品、映画化されすぎ。
そりゃ、井坂氏にギャラは入るだろうし、宣伝効果もあるだろうし、
それによって読者が増える、というのは、大切なことなのだろうけれど。

伊坂作品に限らず、
小説(やコミックス)を原作としたテレビや映画界の安易な映像化には
正直言ってうんざり。
作ってるほうは「安易」とは言わないのかもしれないけれど、
だったら、骨格(物語)から自前で作れよ!
作家の力量や物語の魅力に頼らずに!
とか思っちゃうわけでございます。

小説は小説で、
完結して欲しいよなぁ、と思うのは、私の勝手なエゴなのですが。

映像化しないと楽しめない、っつーのは、
ちょっと、脳味噌足りなくないですか?
とか思っちゃうのよ、正直言って。

そりゃ、映像ではなくては堪能できない良さもあるのだと思うし、
映画は映画で、ウェルメイドなものは(打算なく。バランスよく。
もしくは破綻していても魅力があるものは)好きなんだけどさー。

なんか「原作伊坂で、キャストはこの役者で、ほりゃ、そーすりゃ、
お客さんたくさん来て採算取れるでしょー」みたいなことだとすれば
作品にも、お客にも失礼な気がするんだよなぁ。

お客の動員数、もしくは視聴率によって評価されるショービズ界では
なにより、それが重視されるのもわかるし、
作ってるほうは、少ない予算、限られた時間で「当たる」ものを
作らなきゃならないわけだし!大変なのもわからないではないけれど。

そんなわけで、
映画化、するならするで、是非とも良質なものにして欲しいと願うわけです。
なにより、原作が素晴らしく良いのだから。
スポンサーサイト




浅田次郎が、映画と小説は別物ですから、と昔インタビューに答えてました。自分の手から離れた時点で、それはもう全く別の作品なのだと。 だから、映画化された後文句を言うぐらいなら、映画化の許可なんか最初からしなければいいだけの話だ、と。

でも正直がっかりすることもあるらしいです。(笑)

実際、原作を映画化したものってやはり自分の脳内でなんらかのイメージがあるだけに、失望したり欲求不満になることって多いですよね。思い入れのある作品ならそれだけに。

なので原作を読んでいるものは、基本的に私は見ないようにしてるんですけど(見てしまうとやはり映像というのは圧倒的な情報量で飛び込んでくるので、その後小説を読んでもそっちにひきずられちゃうのが嫌で)、全く別の作品としてとらえて素直に見るべきなのかもしれません。

長文ごめんなさい。

>だったら、骨格(物語)から自前で作れよ!
>作家の力量や物語の魅力に頼らずに!

ここに関しては、うーむ、それぞれに監督が違いますし、その人たちがそれぞれ「伊坂さんの小説を自分の手で映像に!」と思いたくなる気持ちもわからなくもないんですけどね。実際、映画にしても脚本家はいますから、そうなると良い脚本家を選べということでしょうか。あ、脚本と監督を同時にこなす人もいますね、三谷さんみたいに。でも、昔のミュージカルを映画に、とか、風とともに去りぬという名映画も元は小説ですよね。

映画の役割はオリジナルの新しいストーリーを生みだし映像化する、という面も確かにあると思いますが、良いストーリーを、映像化する能力というのもありなんじゃないかなぁと私は思ってます。なので、これに関しては作家の力量はともかく、物語の魅力に魅せられてってのはいいんじゃないかと。

>映像化しないと楽しめない、っつーのは、
>ちょっと、脳味噌足りなくないですか?

うーむ。小説と映画の役割の違いのような気がするので、そこまで言ってしまうと。(笑)

valさんはこの作品が好きすぎて、不安になっているのかなぁとちょっと思いました。「ゲド戦記」が映画化されると聞いた時は、期待感が少しと不安感がいっぱいでしたから(結局見てないんですけど…w)まぁ、役割が違うといっても、なかなか小説を読んでると「別物」とは捉えられないんですが…^^; 

ちなみに、あ、これはこれでありかも、と思った作品は、辻仁成×江國香織の小説を原作化した作品でした。特にイタリアの情景とかうまく自分で想像できない部分を補ってくれたので。
【2007/12/28 09:29】 URL | そら #t8RLJlCU[ 編集]
そらさん>
コメントありがとう!

そうだねー。好きすぎで不安っていうのは確かにあるかも!
原作、とはいえ、小説と映画はもう別物、って
割り切っておいたほうがいいんだろう…とは、思いつつも、
そらさんが言うように、仮に見ちゃうとすると、その後、
小説を再読した時に絶対に映像に引きずられてしまう、
っていうのが困るなぁ、というか。

特に、最近は、本屋さんの店頭とかでも、
映画のプロモーション用の画像を流していたりするので
とても困るの!(笑)
映画本編は、見に行かなければそれで済むことだけど
突然、目の前に提示されてしまうと、やっぱりつい、
見てしまったり(笑)

確かに、小説を、うまく消化させて(仮に独自の解釈などが
加わったとしても)映像化している作品は過去にもあるし
そこまで作り上げることができるのなら素晴らしいなぁ、
と、私も思うのだけれど…

「この小説が好きだ。そして私はどうしてもこの作品を
自分の映画という手法を使って作ってみたい」という
モチベーションから生まれた映画ならば個人的に『許せる』
けれど、「伊坂氏の作品はもともと映像的だし、人気もあるし
じゃ、ちょっと、その人気にあやかって、あと、人気の俳優を
使って、興行的に成功するやつを作っちゃいましょうか」的な
アプローチだと、個人的に『そういうのは嫌だなぁ』と思う、
…ってそんなところかな。

辻仁成×江國香織の場合、なんとなく、一番はじめから
映画化、というメディアミックスという戦略というか、レールを敷かれていた
ような気がする…それはそれで、もし、そうだったとしても、
いや、逆にそうであれば、映画化も含めてひとつの作品、と
捉えることができる、かもなぁ。
そうじゃなくて、単に脚本家や監督が、小説の世界観をつかむのが
巧かった、ということかもしれないけど。

小説というのは、基本的に個人作業だよね。
その作家の個人作業から、直接、読者という個人に降りてくる。
(まぁ、装丁とか、そういう影響はちょこっとあるけど)
それに比べると、映画、というのは、伝言ゲームとか、
連想ゲームに近いものがある。
いろんな人が関わって、いろんな人の立場や思惑があって。
そして、その伝言ゲームの一番最後にいるのが観客、に
なってしまうから、そのへんが気になるのかもしれない。
原作のない、もしくは、原作を知らない場合は、
伝言ゲームのスタートを知らないから気にならないわけだけれど。

うん。
でも、小説と映画は別だし、
映画は映画で素晴らしい、というのはその通りだ。
自分の思い入れとは別に、
ちゃんとフェアに判断できるようになれるといいのだけれど。
うむー。(笑)
【2007/12/28 10:26】 URL | val #-[ 編集]














管理者にだけ表示を許可する


| HOME |


Design by mi104c.
Copyright © 2017 scrap, e.t.c., All rights reserved.

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。